世界一周の準備をしている、僕が思う「世界一周」とは。
「世界一周」昔はとてもカッコよく聞こえたのに、今や世にありふれすぎて、世界一周が当たり前のように聞こえる言葉になってきている。
そもそも世界一周とは何でしょう。定義だけで言ったら、地球をぐるっと一周すればいいだけのこと。
日本→アメリカ→ドイツ→日本
オーストラリア→チリ→フィンランド→オーストラリア
この3パターン全ての航路だとしても、世界一周になる訳です。
たったの3カ国、それでも定義上では世界一周ですし、人に世界一周したことあると言っていいんです。
けどなんでしょうね、定義を書き出したそばからですが、そもそも定義に縛られる意味なんてありますかね?
SNSが発展しすぎている近頃は、世界一周が非常に身近感じることができます。世界の絶景を見ることも可能ですし、世界一周によって偉大なことを成し遂げている人たちもたくさん見れます。
むしろSNSで見かける人たちは、ものすごい人たちばかりな印象すらあるくらいです。
でもだからこそ、世界一周という言葉のイメージが定着してしまっているのかなぁと。
世界一周なんて、テキトーでいいんですよ。
凄いかっこいい映像撮ったりとか、何かをしながら世界一周したりとか、低予算で世界を回ったりとか、そんなことしなくてもいいんです。
SNSを使って、イイね求めて誰かに認められたり、誰かに羨ましがられたいっていう理由でも素晴らしいと思います。
人によって様々な理由があるだろうし、価値観は人それぞれ。
世界一周が0を1にするきっかけ創りなのだとしたら、世間からの声は、世界一周することによって0から100を創らないといけないように聴こえます。
何も世界一周に、この後の人生「全て」を求めている訳じゃあないんでしょうよ。
世界一周に「全て」を求めている訳ではないのに、深く考えるのはやめちゃいません?
世界一周なんてただの言葉にすぎないんだから、その中に何を求めるかなんてどうだってよくないですかね?(笑)
世界一周という言葉が気に入らないなら、自分で新しく単語を創ればいいじゃないですか。
もちろん僕も世界一周に行きます。
ですが僕の世界一周は、もしかしたら世界一周じゃないかもしれません。
地球横断かもしれませんし、世界周遊かもしれません。はたまたただ遊びに行っただけなのかもしれないですし、まったく新しい言葉を創りあげるかもしれません。
テキトーでいいんです。むしろ僕は、テキトーがいいんですよ。
少なからず世界一周なんて、自分の見たこともない景色を見に行くのが目的なのに、
世界一周中に、何か偉大なことを成し遂げれば意味がないだとか。
その後の人生を決める世界一周にしなければならないだとか。
自分以外の価値観や、先人たちの価値観を参考にして、世界一周なんてダサいだとか、凄いカッコいいとか、どうだっていいんですよそんなことは。こちとら自分がしたいことをしに行くだけなんですよね。
好かれるために生きているわけでないですし、ものすごく強い承認欲求を持っている訳ではないですが、自分のしたいことしているだけで、周りに褒められるなら儲けもんですけどね。
もしあなたが、世界一周という言葉の定義からくるプレッシャーに負けて、最初の一歩が踏み出せないのであれば、
世界一周というたった一つの言葉の定義に押しつぶされちゃうくらいなら、そんなつまらない定義なんて僕と一緒に捨てに行きません?
そんでもって、新しく言葉創りましょうよ。
もしかしたら、あなたがこれからしたいのは、僕達が新しく創る言葉の定義かもしれませんよ?
言葉だって、自分よりも昔に生まれた人たちが、人と円滑にコミュニケーション取る為に創ったただのツールの一種でしょ?(笑)
けどそれは、その時代に1番合わせた言葉ってだけで、今の時代にピッタリとは限らないはずです。
だったら、僕たちで今の時代にピッタリの言葉を創れば良いだけの話じゃないですか。
そんなこと無理だと思います?けど世の中造語ばかりじゃないですか?
僕自身がそういう造語に疎いだけなのかもしれないんですけど、若者言葉なんてその最先端です。
もしかしたら皆さんだって、友達だけにしか通じない、特殊な造語を持ってたりしないですか?
それと同じ感覚です。
僕の思う世界一周とは、なんてことはない、ただ自分の好きなように生きればいいのでは?ってだけです。
難しく深く考えたりもしない、他人からの見え方も気にしない、ただ自分の好きなように、好きな場所に向かうだけです。
長々駄文を読んで頂いた皆さんに申し訳ないですが、なんならこういう考えすらどうでもいいです。(笑)
こんなの僕の価値観にすぎないですから、皆さんも各自好きな意味をみつけちゃっていいんです。
こんな僕と似たような価値観を持っている方がぜひ会ってみたい。そんで一緒に新しい価値観を創りあげましょうよ。
すっごいどうでもいい話ですが僕は密かに、歌詞のないクラシックにアニメーションをつけて、僕の頭の中を表現したいのですが、この「クラシックにアニメーションをつける」という意味を持つ造語を創り、その造語を言葉として広辞苑に載せたいという、小さな野望を持っております。